君の名前を呼んでみる 夏の匂いがする
怒らせて黙ったままの 君の匂いがする
どうしようもなく好きになった 去年の梅雨明けのころ
本当はお祝いのワインあける1年目に
僕のワガママに 肩すくめた君がいた
少しでも君の心に 想いが残っているなら
もう一度見つめて欲しい
自分のことしか見えていなかった 僕だけど
最後の人だと 本当に思っている
君の名前呼ぶと 夏の匂いがするのは
漢字に「香」という文字が 入っているから?
一人でいるとそんなことばかり 考えて泣きそうになる

仕事に慣れない君に無理ばかり押し付けた
大事にしてるなんて 言葉だけだったね
少しでも君の心に 想いが残っているなら
もう一度見つめて欲しい
自分のことしか見えていなかった 僕だけど
君のいない 夕暮れなんて見えない
二人で来た店なのに 今日のテーブルは広くて
ここでいろんな話をしたよね 遠い明日のことも
思えば君のしぐさ 一つ一つは
空気に溶けるように できてた
★かけら。
晴香の匂い。僕の中で、揺れて霞んで、時々自意識を爆発させて、次第に近付いてきて、気がつけば遠くに香る。晴香の匂い・・・。
それは、世間的には不倫という、実に面倒臭い、レベルの低い、日蔭の花のような季節だった。僕には家族があった。子どもと、妻と。仕事も順調で、不満など何もないような生活を送っていた。普通の生活。年齢的にはそろそろ次の仕事、というより、最後の仕事を何にしようかと考える時期になっていて、人生の先も見え始めた頃だった。

晴香は、そんな僕の前に現れた、偶然の核爆弾だったのかもしれない。最初はその美しさに惹かれた。ふたまわり以上も離れた美しい器。その器には陰りがなく、どこまでも純粋で、そしてしたたかだった。僕自身、恋の話は少ないほうではない。きっと、恵まれ過ぎた経験を重ねてきていると思う。本気で好きになった経験も少なくない。だから、この「興味」が本気に変わるなんて、少しも思わなかった。
晴香と一緒にいると、とにかく楽しかった。新鮮な感覚と同じような価値観に包まれて、僕は恥ずかしいほど焦がれていた。このまま、ずっと時々会えれば、そんな楽しい生活はないだろうと感じていた。自然な流れで、セックスをするようになり、晴香の身体にも溺れた。ありふれた不倫なのかもしれない、と時々思った。彼女のために、いいことは一つもないとも思っていた。
事実、晴香は常に苦しんでいた。割り切りができる性格ではなかった。恋人がいた。家族を愛していた。そんな中に突然現れた、なんとなく何でも知っているような男。父親に近い年齢の男。このままつながっていても、結局何もない。いろいろな人を裏切り、悲しませるだけの行為。それでも、晴香は少しずつ本気の愛を注ぎ始めていた。それゆえに苦しんでいた。
僕はといえば、愚行の極みへと走りはじめていた。晴香の持っている空気感は、何物にも代えがたかった。彼女がいれば、残りの人生は何もいらないとまで思った。愚かな、非常識な想いとは知りながら、それを抑えるだけの余裕はなかった。時間と家族と仕事を忘れて、晴香にのめり込んでいった。
不倫の結末は、だいたい離婚できずに女性のほうが時間だけを無駄にしたまま終わる。ときどき、露見して修羅場を迎える人もいるのだろう。そういう例をいくつも見てきた。いつか同じような結果が待ち受けているのだろうか、と何度か思った、けれども、僕を突き動かしていた想いは、自分でも予想できない方向へと動き始めていた。もし、晴香が自分だけを愛して欲しいと言ったら、どうするのだろうかと。家族と自分のどちらが大事なのか、と問いだしたら、どう答えるのだろうかと。
たぶん、普通はそれが終りの合図で、そこから先は肉のつながりしかない生活が始まるのだろう。けれども、僕は、いや、僕の中の新しい僕は、本気でそれを考え始めていた。家族を愛している。もし、危険が迫れば、自分の命を投げ出すことなどたやすい。そのくらいの想いはあった。離婚を言い出せば妻は性格的には「いいよ」と言うだろうけれど、驚きと怒りは大きなものになるかもしれない。子どもはこれから一番お金がかかる年齢だし、父親がいないことがどんな影響を与えるのか想像もできない。どう考えても、それは賢明な選択ではないし、遊び慣れていないオヤジが若い子に熱を上げている、よくある構図にしか見えないだろう。
でも、と僕は思った。用意をしておこうと。愚行極まりないことなのに、なぜか僕は本気で用意をしておこうと考えていた。友人の司法書士を訪ねる。そう、晴香には偶然会ったようなことを言っておいたが、これは僕がお願いした約束だった。僕の資産と、慰謝料と、養育費を計算してもらう。相手に落ち度がない場合の、全額が知りたかった。友人は呆れ顔で約5000万円という金額を出してくれた。多いのか少ないのかわからないけれど、今の僕のほとんどの財産は消える結果となる。もちろん、家は別にしての金額だ。成人するまでの養育費は毎月かかっていくだろう。

それはそれでどうにかなるだろう。でも、もしそうなった場合、晴香を養うことがギリギリのラインとなってしまう。生活に困るような経験はさせたくない。僕は、少しずつ続けていた副業のライターの仕事を激増させた。信じられないくらいの、増やし方だった。会社の仕事をなるべく短時間で終わらせて、残りの時間をすべて書きものに費やした。睡眠不足と持病の潰瘍が再発した。それでも、晴香に会うと、そんなことは何でもないような気持ちになれて、だんだんこれは正しいことなのではないかと思いはじめていた。晴香には、「会えない時に仕事に没頭しているんだよ」と嘘をついた。
仮に一緒に暮した場合、僕は晴香よりもかなり先に死んでしまうだろう。その時に一人になる晴香を心配した。けれども、よく考えればそれは思い上がりで、きっとまだ若い晴香は、いくらでも素敵な人を探すことができるだろう。その点は心配ないのかもしれなかった。僕は苦笑した。
年が明けた。晴香はさらに深く僕を愛しはじめていた。もちろん、それは勝手な解釈だったのかもしれない。でも、僕の本当の気持ちが伝わっているような気がして、嬉しかった。もちろん、一度も晴香に考えていることを話したことはなかった。話すつもりもなかった。二人が、このまま愛情の確認だけではどうにもならない場所に上り詰めたとき、僕は話してみようと思っていた。
晴香は本当に賢い、素敵な女性だった。一年前よりも綺麗になり、大人になった。上品さと強さと自己中心的な拘りと、優しさと、深い愛情があった。僕が最後の人に選んだとしても、きっと後悔しないだろうという自信があった。それでも、まだ、このまま何もなく続いていければいいと思ってもいた。それが、晴香のアンテナに触れ始めていることに、僕は気付かなかった。
彼と別れようかと思う。そういう話をした時、僕は叫びたいくらいの嬉しさに包まれた。けれども、「大事にしなさい」というような、10歩も下がった言い方でかわしてしまった。晴香は傷ついていた。そして、どうしようもない苦しさに包まれているように見えた。
そして、きっと苦悩の末に、晴香は、僕から去ることを決めた。それは、常識的には最高の選択だと思う。これ以上傷つけない最良の方法だと思う。けれども、僕はひどく悲しかった。自分が情けなかった。想いは伝わっていなかった。家族を守りながら自分と楽しく遊んでいるように見えたのだろう。それは仕方のないことではあったけれど、悲しかった。丸く傷のない晴香への想いが、「かけら」になっていた。元に戻そうとして、つなげてみても、丸くならなかった。
もう晴香に会うことはできないのかもしれない。それでも僕はもう少し待ってみようと思う。人生で最後の人に選んだことは、遊びでも戯れ合いでもないことを、少しだけわかってもらえる日まで。それは、いつまでも来ないのかもしれない。「かけら」のままなのかもしれない。
晴香は彼といずれ結婚すると言っていた。僕はそれを祝福できないでいると思う。どこまでも自分勝手な、自分を求めて欲しかったというくだらない想いにまみれて、生きていくのだと思う。
春になる。新しい生活を始める人たち。晴香もその中の一人なのだろうか。僕は、かけらを抱いている。
<ナース ミーツ ユー>
市販の薬で何週間も誤魔化していたのがいけなかった。プレゼンの朝、吐き気がして、ベッドから動けなかった。起き上がろうとすると、目眩がして、胃のあたりが膨張し、自分の表と裏がわからなくなるような感じがした。それと同時に、モヤモヤした冷汗が出た。
やっとのことで、携帯をとり、会社に電話をする。
「望月、今日のプレゼン代わってくれないか?」
「はあ、いいですど、やっぱり胃が悪いんですか?」
「今日はヤバイよ。動けない。」
「いい加減、病院に行ってくださいよ。こっちは僕と設楽でどうにかなりますから。先方も、若手が出てくるみたいですし。」
「わかった。宜しく。病院、行くよ。また電話する。」
それにしても、どうやって病院に行けばいのだろう。ベッドから起きれば吐いてしまう。頭はクラクラして、運転できない。救急車?とも思ったけれど、マンション中が驚いてしまうだろう。やっとの思いでPCデスクまで辿り着いて、近所の内科を検索した。
予想外に病院の数が多い地区に住んでいるということに気づく。歯科医と産婦人科が多い地区。マンションに一番近い内科医は、意外なことにマンションの裏手にあった。
「歩いていけるかな・・。」
といつもの僕からは想像できない言葉を吐いて、ゆっくり服を着替えた。下を向くと吐きそうなので、座って靴下をはいた。コンビニのレジ袋をポケットに入れる。情けない。靴を履くときに、思わずレジ袋を使いそうになった。ゆっくりとしか動けない。胃はいつのまにか強烈な痛みを伴っていた。
おそらく200mもないだろうその病院まで、20分もかかった。一歩一歩、おそるおそる前に進んでいたからだ。受付には、きっと僕より20㎏は重そうな女性がいた。安心感?まあ、そういえなくもない。びっくりするくらい甲高い声が僕の胃を直撃する。
「顔色悪いですよ~。風邪ですか?」

「いや、胃が痛くて。ものすごく。」
「あ、そうですか。じゃ、こちらのアンケートを書いてお待ちください。」
きっと彼女の中では、胃痛より風邪の方が重症なんだろう。全然心配していない様子で、彼女はバインダーを手渡した。
<お酒は週に飲みますか?><妊娠していますか?>という質問に律儀に答えながら、僕は背中を丸めて、順番を待っていた。
ドクターは30代くらいだろうか。僕より随分若い感じがした。それよりも驚いたのは、そこに一緒にいたナースだった。一瞬、友香かと思ったくらい似ている。
長身。黒髪。おそらくセミロング。アジアンビューティー系。友香よりは3~4歳上だろう。美しい横顔。薄い胸。長い脚。そして、何よりその冷たいのに甘い表情がそっくりだった。その時の僕は、胃の痛みなどほとんど忘れていたのだと思う。ドクターが「胃ですかねぇ」と言いながら腹を押している間、ずっと彼女を見ていて、適当な答えしか返していなかったと思う。
「十二指腸潰瘍かもしれないね。」とぞんざいな感じで言う。
「は?」と僕は現実に戻る。
「胃ではないんですか?」
「そう。十二指腸は胃の下にあるんで、胃の痛みに思うんですよ。まあ、結論はカメラ飲んでからにしましょう。」
「胃カメラ。」
硬いベッドに横を向いて寝かされている。友香似のナースがとんでもなく痛い注射をしながら、
「カメラ、初めてですか?」と言った。
僕は、どうしても聞いてみたくなって、
「妹さん、いますか?」と言ってしまった。
「残念ながら、弟なんですよ~。」と笑う。「残念ながら」という言葉を添えるところまで、友香に似ている。愛想があるのかないのかうまく読みとれないところまで似ている。
カメラのついたチューブは思ったより細く、スムーズに僕の体の中で捜索を開始した。後から友人に聞いた話によると、ドクターの技術の差がスムーズさに関係するらしい。
「あ~、やっぱりね。」
僕は横目でモニターを見る。自分の胃の中を見るのは不思議な気分だ。
「こりゃ、ヒドイね。痛いでしょ。」
そんな言い方をしなくても、十分自覚している。
「入院しないとダメだね。切るかも。」
切る?手術?切腹?僕は単なる胃痛から、即入院手術患者へと変貌していた。
ドクターとの話で、結局手術ではなく、投薬治療で様子を見ることになった。点滴を何本も入れて、安静にしているらしい。僕の十二指腸潰瘍には、ご丁寧に2箇所あって、それが向かい合わせで腫れている。時々、その二つがぶつかって、とんでもなく痛さを生むらしい。
「Kissingって言うんですよ。」とドクター。
なんでそんなに可愛い名前をつけているのに、こんなに痛いのだろう。
相部屋が空いておらず、僕は一番西側にある個室に入れられた。これから数日間、口から何も食べられない。胃腸を完全に空っぽにしながら、点滴で治療していくらしい。
スライドドアが開いて、僕の大切な人が顔を出した。本物の友香。
「おどろいたー。入院とか言うから、慌ててきた。」
「あ、ごめんね。でもさ。」
「あ、聞いたよ。ナースステーションで。点滴治療だって。切らないでよかったじゃない。」
友香らしい。情報はまず自分で集めてみる。それでも分からなかった時は、役に立つ人に聞く。役に立つ人を沢山集められる能力と魅力。きっとここに来る途中でパソコンで「十二指腸潰瘍」を検索し、ここについたらナースから情報を集めたのだろう。
「何日かかるかわからないって言うんだけどさ。」
「そうね。私は6日間と見るわ。」
根拠はありそうだから、あえて聞かないことにする。
「ちょうどいいお休みでしょ?十二指腸潰瘍の原因はストレスなんだから。仕事は少し忘れなさいって。」
「仕事のストレスかなぁ。友香とセックスできないからじゃない?」
「病人のくせに、偉そうなこと言わないの。私だってしたいんだから、ってことはどうでもいいけど、締め切り直前は無理なの。」
「わかってるよ。きっと仕事のストレスだ。・・・・ね、キスして。」
「バカ。」と言いながら、友香が顔を近づけた時、またスライドドアが開いた。
その瞬間に僕が居合わせたことは、「世の中の不思議」を感じられた貴重な経験となった。人は自分とそっくりな人に出会った時、どういう反応を示すのか、じっくり観察できたからだ。ドアから入ってきたのは、点滴セットを持ったナースだった。
「あ、ごめんなさい。お客様でしたか。」と言って友香を見た瞬間、彼女はとっても嬉しそうな表情を浮かべたのだ。決して驚いているのではない。懐かしい友人が、電車から降りてきた時のような、優しい表情だった。
友香は?と思って彼女を見ると、こちらもまた見たこともない柔らかい表情でナースを見ていた。僕は信じられなかった。もしかして「人目惚れ」?なんてことはないだろうけれど、そういう雰囲気があった。
結局、僕の退院は友香の予想通り6日目に退院した。後はストレスのかからないように生活をしながら、気長に治していくらしい。
半年後。
ベッドの中で、友香の素敵すぎる声を長い間聞いた後、彼女はこう言った。
「今度ね、小百合さんと旅行に行こうかと思うの。」
小百合というのはナースのことだ。あれから、友香はすっかり意気投合し、本当の姉妹のような付き合いをしているらしい。
「仲いいね。恋人みたいだ。」
「同性愛?そうね。」
「そうなの?」僕は大きな声をあげてしまった。
「そうじゃなくて。私はあなたとしかしたくないの。でもね、なんか精神的な慰撫もあるのかな、って思う。小百合さんに優しくすると、自分に優しくしているような気分になる。そして、いつもよりいろんな力が出るような気がする。」
「よくわかんないけど・・。でも、旅行に行って、妙な気分になちゃうんじゃないの?」
「バカね。短絡的。そうね、例えるなら、kissing。」
「ん?十二指腸潰瘍?」
「そう。それぞれは自己主張をしているけれど、ときどき出会ってぶつかると、もっと大きな力を出せるような。」
僕はなんだかまた、腹が痛くなってきた。腹をさすろうとした瞬間、友香の唇がそこを辿った。
過激なブーイングに、ホイッスルの音も消されて、グランドは無秩序になっていた。サッカーJ1リーグの最終戦。ここで負けるとJ2へと転落する喜劇的な試合の前半だった。明らかに意図したバックチャージで、選手の一人が転倒する。それを無視したホイッスルに、観客は容赦のない罵声をあびかけていた。アウェイの洗礼。まるでラグビーチームのような黒い軍団に残された時間は少ない。
キックの正確性は、蹴り足にあるのではなく、軸足にあるという。正確なセンタリングは軸足の位置で決まる。ディフェンスは一方でその軸足を見てボールの方向を予測する。ちょうど野球の外野手がバットにボールが当たる音でスタートを切るように。そういえば、新庄という野球選手が言っていた。
「ファインプレー?それはわざとスタートを遅らせるからできるんですよ。」
プロの世界はそういうものかもしれない。エンターテイメントとして観客を興奮させることにギャラが支払われているのだろう。
僕が今、一番大事にしているもの。それは、史菜との時間だ。いや、時間だったというほうが正確なのかも知れない。どこまでも透明で、意地っ張りで、とんでもなく優しくて、驚くほど努力家。ときどき、そんなに頑張らなくてもいいのに、と言ってしまうくらい、史菜の時間は濃かった。
その逆に、僕の時間はスカスカの薄い酸素で出来ている。深呼吸をすれば、もう酸素がゼロになるくらいの、さしあたり人に迷惑をかけないくらいの時間。だから史菜に触れると、僕は充電できるような気がしていた。2年間、僕という携帯電話は史菜の充電器で生きていた。

「珍しく、大きな声出してたね。」
「そう?それは失礼。サッカーで鼓動が速くなったのなんて久しぶりだったよ。悪い意味でね。」
史菜は助手席で首をすくめた。スタジアム近くの渋滞を抜けて、僕は深くアクセルを踏み込む。
「ね、窓開けていい?」
「いいよ。寒くないかな。」
「寒いくらいが、なんだかちょうどいい感じなの。」
車の中に11月の風が流れ込んできた。確かに、今の気分を冷やしていくのに丁度よい感じの風だった。史菜は、そういう感覚に優れている。僕の、ちょっとした気持ちの動きを、何気ない行動でフォローして、そして、何も気づいていないような顔で、本質を突いてくる。
本当は、今日で最後になるはずの二人だった。会えない時間が多くなり、それに慣れていくと、会う時間を作ることにも熱心ではなくなってしまう。もともと史菜も沢山の人と話したい、刺激を受けたいというタイプなので、それは同時に自分の時間を取り戻すことにもなっていた。僕も、新しい仕事を立ち上げたばかりで、暇な時間など1分もなく、会いたい気持ちの置き場所さえも忘れかけていた。
このまま自然に終わってしまいそうな関係に、少し嫌な感じがして、僕はサッカーのチケットを2枚買った。別れ話がスタジアムなんて、きっと僕らしいと笑い飛ばしてくれることを祈りながら。
史菜も話がしたいと言った。ハーフタイムで終わるはずだった。2年間のちょっと素敵な時間が、小粒の思い出になるはずだった。
前半の終わり近く。隣の席の人が話しかけてきた。
「こういう場合さ、どうすればいいんだ?ディフェンスは。」
「え?」と驚いて僕。
「だからさ、あれだけ真ん中を切り込まれたら、防戦一方だろ?なんかいい作戦はないのかな、って思って。」
どう見ても一人言ではなく、僕に向かって話している。隣の史菜も困惑気味の表情を浮かべていた。
「そうですねぇ。」となぜか敬語になっている僕。熱いサポーターだと面倒くさくなりそうだった。
「4番がセンターバックですよね。で、彼は声を出しているんだけど、ラインが曖昧な感じなんですよ。基本的なことだけど、ラインを上げてオフサイドをかけていくしかないですね。相手の11番は常に裏を狙ってきてますから。」
「だよな。俺もそう思った。よかった。ありがと。」
その人は、とんでもなく大きな声でグランドに向かって叫んだ。
「斎藤!ラインをコントロールしろ!渡部はそれを見てタイミングをはかれ!オフサイド・トラップをかけていくんだよ。聞こえたか!」
一瞬の静寂の中で、その声は十分に選手に聞こえたらしい。ファンサービスなのかわからないけれど、渡部という5番の選手がこちらに手を挙げた。スタンドが一斉に湧く。周りから「よく言った!」という声が集まる。
「選手が観客の指示に反応するなんてあるんだね。」と史菜。
「初めて見たよ。信じられない。」
「でもこれ、あなたの指示だもんね。」と笑顔の史菜。
「そうそう。でも偉いのは、となりのお兄ちゃんだよね。」
「そうね。あなたは、思っていても届くようには言わないね。」
「まあね。」と言いながら、僕は史菜が大事なことを言っているのに気づいた。思っていることを届けないこと・・。この数カ月がまさにそうなのかも知れない。自分の言ったことなど、まるで関係ないように応援をし始めた史菜。美しい横顔。セミロングが抜群に似合う背中。いつも少女のように僕の話を聞いてくれる、でも舐めると大人になる耳。腕を回すと想像以上に細い腰・・・。なんでこんなに大事なものをなくそうとしているのか、僕は自分がわからなくなっていた。
「今日、話そうと思ったこと、またにしない?」と史菜。いつものように、僕の考えの少し上を行く。
「うん。ん?話って何のこと?」
「別々のチケット買うということ。」
「・・・。」
「またでいいよね。まだあなたのとなりで、へんな事件に巻き込まれたいんだもん。」
「いいよ。」
「風当たってたら、今度は温まりたくなっちゃった。」
「はいはい。」
ラブホテルに入ったのは何年ぶりだろう。透明のバスタブをみて史菜も苦笑している。なんだか、とっても楽しくなった。広いベッドに史菜と倒れ込む。
「今日、普通の白だけど。」と史菜。こんな時まで気を使う。
「いいよ。すぐ全部脱がしちゃうから。」と僕。こんな時でも気を使えない。
史菜は温かかった。温めてもらったのは僕のほうなのだろう。
「気持ちいい・・。」と目を閉じる史菜。
TVは、サッカースペインリーグを映し出していた。メッシが倒され、大ブーイングが起こる。僕のセックスにブーイング?と思いながら、史菜の好きなところに擦りつける。声を出す史菜。メッシのシュートがゴールを揺らす。史菜と同時に。